人気職業と言われるアナウンサー職、とりわけ華やかにテレビを彩る女子アナウンサーは目を引きます。皆さん高い倍率を勝ち抜いてきただけあって総じてアイドル顔負けの容姿端麗であり、有名大学を卒業された才媛でエリート街道を歩んでこられた方々です。いわば勝ち組と言われる人たちです。

 

 

男性と違い女性の場合は結婚を機に、退職し家庭に入る人が多いものです。アナウンサーの世界でも例に漏れずですが、この風習を逆手に取ってかつてのテレビ局では信じられない制度が存在していました。

 

女子25歳停年・女子アナ契約制

 

女子アナは正社員ではなく契約制で25才で辞めなければなりませんでした。これはフジテレビの社則として存在していたのです。華やかな世界で活躍している女子アナですが、かつては男性アナとの待遇の違いが歴然で、収入面でも大きく差ができていたのです。今では絶対にあり得ないし、復活することもないでしょうが、こうした不遇を強いられた過去の女子アナウンサーの待遇面にまつわるストーリーを検証していきたいと思います。

 

 

なぜ女子だけ!?25才定年と契約制

今から60年前の昭和30年代前半までに在京テレビ局が続々誕生していきました。それによりテレビ局の看板であるアナウンサーも各局で採用されていくのですが、アナウンサーは深夜・早朝の仕事もあり不規則な面があります。加えて女性は結婚を機に退職するケースが殆どでしたから、長く働いてくれるという観点から男性をアナウンサー職として採用する傾向にあったようです。

 

 

テレビ創成期当時の女性のアナウンサーはアナウンサー全体からみて少なく、TBSでは1969年から76年までの8年間は女子アナの採用を休止していたそうですから、女子アナがいかに待遇が悪かったかがお分かりいただけるかと思います。

 

そして先述で触れたフジテレビの女子25歳停年・女子アナ契約制、この悪しき制度を象徴する一つの人気番組がありました。

 

 

1966(昭和41)年10月3日から1982(昭和57)年3月31日まで児童向け番組として親しまれた『ママと遊ぼうピンポンパン』女子アナと言えばフジテレビと言われていた時代もありましたが、『ママと遊ぼうピンポンパン』で活躍した5人の歴代おねえさんは皆アナウンサーとして採用された人たちなのです。

 

 

石毛恭子さんはおぼろげながら覚えてますが、ピンポンパンのおねえさんと言えば世代からして酒井ゆきえさんですね。歴代のピンポンパンのおねえさんは皆、アナウンサーとして採用されていました。しかし彼女たちはフジテレビ採用の際にはいずれも契約制で採用されており、ピンポンパンのお姉さんも交替と同じくして会社も辞めてしまいます。

 

 

不遇を強いられた契約制での女子アナ

フジテレビが女性に限って契約制を導入した経緯ですが、フジテレビに限らず女性は結婚すれば退職するという日本なりの風習に沿ってそうなったようです。世界では女性の社会進出が進んでいたのですが、日本なりの風習がそのまま社則になるなど、世界からはかなり遅れていたということです。

 

 

契約制と正規雇用では待遇面で大きく異なり、特に収入の面では大きく水をあけられていました。男性社員と年収では倍近く差を付けられていたようですし、何より契約制ですから数年後には辞めなければなりません。切迫感もあり当時の女子アナの方からすれば、大変苦労なさっていたことでしょう。

 

 

退社しても、それまでのメディアの露出もありフリーアナウンサーとして活躍されていた方もいます。特にピンポンパンの3代目おねえさんの酒井ゆきえさんはあらゆる番組にキャスターとして出演していましたからフジテレビ時代よりも稼ぎは良かったと思われます。フリーとして活躍すれば収入面でも大きく跳ね上がることになるのですが、全員必ずしもそうなるとは限りません。

 

 

あまりにも悪い女子アナの待遇面を改善するため1966(昭和41)年にフジテレビで組合が結成されることになります。フジテレビ開局からの課題であった女子25歳停年・女子アナ契約制、交換手35歳停年制廃止を要求を全面に会社側と交渉していくことになります。交渉は長きに渡りましたが、1980年代になってある一人の女子アナによって大きな変革をもたらすことになるのです。

 

 

大物女子アナの移籍で女子アナの待遇が大きく変わることに

転機が訪れたのが1981年、NHKの頼近美津子アナの電撃移籍です。この移籍はフジテレビの熱心なヘッドハンティングによるもので、当時在京局の中で後塵を拝する位置にいたフジテレビがNHKで実績のあった頼近アナを口説き落として移籍させたのです。これにより頼近アナはフジテレビ女子アナ初の正社員となり、NHK時代の年収300万円から1,200万円に跳ね上がります。

 

 

 

それに伴ってそれまでの社則であった女子25歳停年・女子アナ契約制は撤廃されることになり、社内の他の女子社員も続々正社員となったのです。先述でピンポンパンのお姉さんたちは交替と同時に会社も辞めたと述べましたが、唯一の例外が5代目お姉さんの井上桂子さん(本間淳子さん)で、彼女はピンポンパン終了後も局に残り、定年まで勤められました。彼女の頃は女子アナの正社員化が進んでいたことも大きいと言えるでしょう。

 

 

局内に残れば、収入面でも大きくアップしますし、アナウンサーを辞めても、管理職としてとどまることができるようになります。現在フジのアナウンス室のトップは女性(佐藤里佳元アナウンサー)となり、男女格差はもはや遠い昔の話となりました。

 

 

 

この制度改正がきっかけとなったのか、それまでの硬派路線から一変し、明るいバラエティー路線のフジテレビに変貌を遂げることになります。『ひょうきん族』に山村美智子アナ、『なるほど・ザ・ワールド』に益田由美アナを起用して人気を得ることになりました。

 

 

 

 1980年代後半からフジテレビの女子アナに個性豊かな面々が集まりだし、タレント化に拍車がかかることになります。タレント化の是非はともかく、他局の女子アナと比較して、知名度もあり人気が高く、好きな女子アナランキングでもフジの女子アナが大部分を占める程でした。女子アナ人気の影響もあってか視聴率でも四冠王を長きにわたって独占し君臨し続けます。

 

 

女性の雇用制度が改善されたきっかけとしては1986(昭和61)年の雇用機会均等法の制定も忘れてはいけません。フジはこれにより全採用者がすべて正規社員となり契約制での採用はなくなりました。国の後押しはやはり大きかったのです。

 

 

ということで不遇を強いられた過去の女子アナウンサーの待遇面にまつわるストーリーを書かせていただきました。華やかな職業であってもテレビ創成期の女性アナウンサーは不遇な面があって大変だったということがお分かりいただけたかと思います。不遇な待遇がまかり通っていた時代を経て、ようやく改善されてゆくのですが、待遇改善までの道のりは険しいものです。

投稿者

yuuponshow

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男女格差が酷かったTVアナウンサー、ピンポンパンの歴代お姉さんも契約制だった。件のコメント

  1. 大野かおりおねえさんは?

    とんとん

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