今のプロ野球界はどこのフランチャイズ球場も施設の整った綺麗な球場ばかりです。それにそれぞれのチームに熱心なファンがいて、そこそこ集客力もあります。かつては巨人戦などセ・リーグが人気でパ・リーグなんてスタンドガラガラが珍しくありませんでした。今でも巨人が人気No.1ですが、テレビ中継が激減したこともあり、かつてほど人気や集客力に差は感じなくなりました。

 

 

古くからの野球ファンで思い起こすのがロッテです。現在では千葉マリンスタジアムを本拠地に構える千葉ロッテ・マリーンズですが、30年ほど前に川崎球場を本拠にしていたロッテ・オリオンズでした。都心部に近いJR川崎駅から歩いていけるくらい凄くアクセス良いのに観客席はいつもガラガラで、球場も狭いし施設は12球団の本拠地では一番悪いと言われていました。

 

 

そんな状況ですからドラフト候補生からは12球団で一番行きたくない球団だと言われる有様で、実力はともかく人気の面でダントツの最下位だったロッテ・オリオンズです。親会社は全国に知れ渡るお菓子のロッテなので業績はあるはずなのに、なぜか球団にはあまり還元されていなかったのですよね。選手の年俸も抑えられ気味でケチなところも見透かされたんでしょうか?ということで今回は懐かしきロッテ・オリオンズについて歴史を紐解いていきたいと思います。

 

 

 

ロッテ・オリオンズと本拠地球場の移り変わり

 

 

ロッテオリオンズの誕生は1969(昭和44)年です。前身の東京オリオンズが身売りしたことで、ロッテが新親会社として業務提携することになります。当時のフランチャイズ球場は東京荒川区の南千住にあった東京スタジアムでした。東京スタジアムは1962(昭和37)年オープンの当時12球団の本拠地球場として一番新しい球場でした。

 

 

東京スタジアムは当時の球場では最高照度の1600lxの照明塔が明るくて、6基の照明塔は2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるモダンな構造が特徴でした。それが芝生に反射して緑光の球場と形容されていました。外野だけではなく内野も緑の天然芝が覆い、強い照明の光で芝生が照らされて綺麗なグリーンがとても見栄え良かった球場でした。そして日本の球場では初のゴンドラ席、地下には都内で五番目のボーリング場を完備するなど商業施設を装備するなど当時の大リーグ球場をモデルにしたボールパーク風の球場施設は下町の野球ファンも選手も誇れる日本一デラックスな球場でした。

 

 

ロッテファンどころかプロ野球ファンが誇れる東京スタジアムですが、1972(昭和47)年シーズン終了をもって突然閉鎖となります。巨人戦のないパリーグはどこの球場も閑古鳥が鳴く状態で一番立派で綺麗な東京スタジアムですら球場経営が赤字続きが続いていました。球場経営が困難と判断した所有するオーナーである小佐野氏はそこでロッテ球団に対し、東京スタジアムの買い取りを要求しました。球団と球場の所有者は一体であることが望ましいと考えての要求でしたが、ロッテ側は費用対効果の面でこの要求を拒否したのです。

 

 

こうして交渉は決裂、東京スタジアムは閉鎖されたため以後の使用はできなくなり、ロッテはこの立派な本拠地球場を手放すことになります。そして1973年(昭和48)年からの本拠地はこちらになりました。

 

 

宮城県仙台市にある仙台宮城球場(後に楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる)がロッテの新本拠地となりましたが、初年度この球場での試合は主催ゲームの約半分しか行っていません。これは各球団は公式戦ホームゲームの半数以上を保護地域内の1個以上の球場で主催する義務を負うという保護地域制度のためです。ロッテの宮城移転後も保護地域はなぜか首都圏の東京であり、後楽園、神宮、川崎といった他球団の本拠地を使用していたのです。

 

 

一方、本拠地の仙台宮城球場はそれまでプロ球団の本拠地になったことはなく、主に大学・高校のアマチュア野球がメインだったこともあり、ロッテが移転しても施設を特別見直すことはありませんでした。プロ球団の本拠地球場としては正直物足りないレベルで、収容人数も28,000人と他球場に比べて少なめでした。翌年1974(昭和49)年にロッテが優勝した時には日本シリーズは宮城球場ではなく後楽園球場をホームにしていました。これは日本シリーズ開催のための規定で収容可能人数が規定の3万人以上と定められていたのを満たさなかったためでした。

 

 

宮城移転2年目で保護地域を宮城県に移したものの、宮城球場と首都圏の主宰ゲームはほぼ半々でした。球団事務所や合宿所は東京にそのまま置いた形をとり、また仙台開催の間は全員がホテルで寝泊まりし、仙台に定住していた選手は1人もいなかったそうです。一応、本拠を宮城・仙台に置いたものの、生活拠点は首都圏という状況なのでペナントレース期間中はジプシー生活のような過酷な移動を強いられることになります。地元意識がそれほどないそんな状況を見透かされてか宮城県民の応援熱も徐々に冷めていき観客は減少の一途を辿ることに。地元意識を強く打ち出している今の楽天に比べると正反対と言えますね。

 

 

1978(昭和53)年、大洋ホエールズが本拠地を川崎球場から新設された横浜スタジアムに移転したのをこれ見よがしと、ロッテは宮城から大洋のお下がりのような形で川崎球場へ本拠地を移転します。ロッテにとっては6年ぶりの首都圏復帰ということで、それまでのジプシー生活からようやく腰を下ろして野球に集中できるので選手・関係者は喜んでいたそうです。しかし点々と本拠地を次々と移転することで地域に根付かないロッテの人気は凋落していき、観客動員も12球団最下位が定位置となりました。

 

 

球団には 落合博満 という球界きっての大打者を輩出したものの、年俸が1億円に届くか?というタイミングで中日にトレードに出されます。獲得した4選手の総年俸は落合の中日での契約年俸1億3000万円の約半分程度(牛島3,240万円 上川2,200万円 桑田900万円 平沼600万円 計 6,940万円)でしたからロッテからすれば金食い虫を追い出せて一軍で実績あり年俸も安い牛島や上川を獲れてお買得なトレードができたと思われます。

 

 

ところがこの世紀のトレードがロッテの不人気ぶりを際立たせることになります。三冠王二年連続獲得した球界の至宝をあっさり放出してしまったことから、「ロッテはケチ」というイメージが定着することになります。これを見てプロ野球を目指す若き有望達はどう思うでしょうか?事実ドラフト会議が迫ると、プロの卵達にインタビューすると「ロッテだけは行きたくない!」と言われることも珍しくなかったそうです。

 

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衝撃的だったのが1990(平成2)年のドラフトで、この年の目玉は亜細亜大学の小池秀郎投手です。8球団指名重複されるのですが、前年の野茂英雄と並ぶ注目株だった小池秀郎をどこが引き当てるかが注目されていました。小池の希望は読売、ヤクルト、西武の3球団でしたが、一方でロッテと阪神には絶対行きたくないと公言していました。結果はロッテが小池の交渉権を得たのです。

 

 

テレビ画面に映る呆然とした小池の表情と一緒に見守っていた学生たちが一斉に悲鳴のような「え~~~~」の大合唱、それ見てここまでロッテって世間で嫌われていたんだと感じました。

 

 

魅力的な選手もおらず、成績も低迷。テレビ中継もほとんどなくたまにTVで取り上げられるのは応援団だけが寂しく旗を振って応援していたり、珍プレー番組でカップルがいちゃついていたり、流しそうめんが流されていたり、上半身裸の集団がパフォーマンスしたりと野球以外で興味を引かれる有様で、本当に悲しいほどお客さんがいませんでした。他球団より低く査定されてしまうケチっぷり、閑古鳥の鳴く川崎球場、この負のイメージを払拭しないといけない!そうロッテ球団も認識し、いよいよ改革に乗り出すのでした。

 

 

CM・球場改装・そして再び移転へ

 

 

この小池ショックは後のロッテ球団の大改革のきっかけとなりました。「いずれはロッテに入りたいと言われるチームに変わらないといけない」そのために着手したのが球団の大々的なPR作戦です。

 

 

1991(平成3)年当時流されていたこのCMですが、演出や構成はともかく「テレビじゃ見れない川崎劇場」のキャッチコピーのインパクトはかなりのものでした。プロ野球球団のCMって長い歴史上恐らくこの時のロッテしかなかったんじゃないかと思います。本拠地の川崎球場も水はけの悪く頻繁に中止することの多かったそれまでの土グラウンドから人工芝に張り替えて見栄えが良くなり、スタンド壁面の再塗装、防球ネットの嵩上げ、一部座席の取替え、パネル式だったスコアボードの電光化を実現しました。その効果もありロッテはこの年球団史上初の観客動員100万人達成を達成するのでした。しかし球団は更なる改革として新球場移転を目指すことになります。

 

 

1991年シーズン中にロッテが千葉・幕張にある千葉マリンスタジアムへの本拠地移転が正式に決定しました。千葉マリンは1990年にオープンした球場で、フィールドは両翼99.5mm、中堅122mmの国際基準レベルの広さで円形なので圧迫感がなく、フィールドや観客席が広々してとても綺麗な球場です。川崎球場も改装したとは言え、フィールドの広さなど設備の面では雲泥の差です。こうして川崎球場とも決別することとなりました。

 

 

不人気時代の苦い経験を活かし12球団一のサポーターを得る人気球団に

 

 

ロッテオリオンズが千葉ロッテマリーンズに変わって30年以上経ちましたが、閑古鳥の鳴く、珍プレイで嘲笑される川崎球場と打って変わって、千葉ロッテは熱烈なファンによって支えられています。ロッテサポーターで埋め尽くされるライトスタンドは即完売となり週末の試合ではレフトスタンドのセンター寄りもマリーンズファンの白で一杯になる程です。ビジターの試合でもレフトスタンドを千葉ロッテサポーターが覆い尽くすことも珍しくありません。ユニフォーム着用での応援、メガホンを使わず手拍子、大きな声で選手を後押しする、また、ジャンプや、大きなフラッグを広げる応援もあり、他の球団にはない独特な応援風景が楽しめます。

 

ビジター球場で、しかも阪神ファンで埋め尽くされるはずの甲子園でこの迫力ですからね(^▽^;)

 

観客動員もオリオンズ時代と比べて飛躍的に伸びました。オリオンズ最終年の1991(平成3)に球団初の100万人の大台をようやく達成できたのですが、現在は160万人規模が通年となっており、昔のオリオンズ時代の悲惨さを知っている者からすれば信じられない思いです。

 

 

ロッテを指名され、あからさまに嫌な顔をして結果的に拒否した小池投手も、今のロッテだったら入団していたかも知れません。お菓子メーカーとして広く知られる大企業のロッテの昨年(2022年)の総売上は2,820億円。総資産は6000億円と言われています。創業から躓くことなく順調に業績を伸ばしてきた親会社がその気になれば、東京スタジアムも買い取れたでしょうし、宮城球場も改装して地元に根付いて宮城県民球団として発展できたのではないでしょうか。時代も違うので一概にたらればで判断できませんが、こういう苦い経験があったからこそ今のロッテの礎を築いたのだと思います。

 

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投稿者

yuuponshow

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