今年のセンバツ高校野球(2025年)は横浜高校が優勝しました。決勝の相手が智辯和歌山高校と全国屈指の強豪校同士の対戦ということで結構盛り上がりました。ところで甲子園で行われる高校野球の全国大会は春と夏、年に二回行われる訳ですが、これまで春夏を制覇したのは7校(大阪桐蔭が2度)あります。横浜高校も松坂投手の時に連覇していますので、今夏優勝したら大阪桐蔭と並ぶ2度目の春夏連覇となる訳ですね。

 

 

今年の春を制した横浜高校だけが、チャレンジできる春夏の連覇ですが果たしてどのような結果になるか注目です。ところで今から90年以上前の話になりますが、春の選抜大会で優勝した学校が夏の大会には出場しなかったことがあります。その替わりに夏の大会の期間中にアメリカへの遠征をしていたのでした。今回はこの選抜優勝校のアメリカ遠征について取り上げてみたいと思います。物理的に春夏連覇のチャレンジができなくなる訳ですが、当時往来がなかなかできなかったアメリカへの遠征なんて学生さんからすれば大変喜ぶし励みになることでしょう。100年近く前のご褒美遠征史とはどのようなものだったのでしょうか?

 

 

夏の大会への対抗から誕生した米国遠征

 

 

高校野球(当時は中等野球)の選抜優勝校の米国遠征が開催されたのは1927(昭和2)年のことです。選抜大会がスタートしたのは1924(大正13)年からですが、夏の大会はその10年前から始まっていたこともあり、歴史のある夏に人気が集中していました。そこで選抜大会を主催していた毎日新聞社に所属していた田村木国氏が夏の大会期間中に行う「米国遠征」を提唱したのです。資金提供は毎日新聞で遠征費用を支援したとされています。

 

遠征費用の総支出は約17,000円だったとされています。昭和初期は一円今の貨幣価値に直すと2,000円くらいでしたから4,000万円以上となります。一新聞社がこれだけの費用を学生の遠征費のために負担するって信じられませんが、昭和初期の新聞社はラジオが普及しだしたとは言え、メディアは新聞社一強でした。当時、新聞は主要な情報源であり、広告収入も独占していました。中等野球も大学野球に匹敵する人気の高い学生スポーツ競技でしたから宣伝効果が見込めます、そして毎日新聞は讀賣、朝日と並ぶ全国誌として名を馳せていましたから社会的影響力が大きく、巨大な資本力もあって米国遠征費用を賄うことができたのです。。

 

 

アメリカ遠征においての費用は選手や監督だけに限らず、遠征を支えるスタッフやその移動、宿泊、食事などにも使われたとされています。特に、遠征の成功には運営関係者や現地での活動を補助する人々の存在が欠かせず、そうした裏方さんへの費用も含まれていました。また、遠征のプロモーションや試合開催の準備費用も発生していた可能性があります。毎日新聞社が資金援助をした背景には、こうした包括的なコストを支える意図もあったのです。

 

 

ここで米国遠征した学校を年度別に紹介します。

 

第4回 1927(昭和2)年 和歌山中学

第5回 1928(昭和3)年 関西学院中学

第6回 1929(昭和4)年 第一神港商業

第7回 1930(昭和5)年 第一神港商業

第8回 1931(昭和6)年 広島商業

 

第6、7回選抜大会を連覇し、唯一2年連続米国遠征をした第一神港商業

 

僅か5年間で実施された米国遠征ですが、主催の毎日新聞が大々的に米国遠征をPRしていたこともあり。選手としても俄然優勝への意欲が掻き立てられたようです。最初の遠征チームとなる和歌山中学は優勝した直後「優勝に加えてアメリカに行けるという喜びで、チームのみんなが泣いた」というコメントを残していました。それだけ選手にとっては米国遠征は大変なご褒美なのでした。

 

 

ちなみにこの和歌山中はその年の夏の甲子園にも出場しています。春優勝メンバーが米国遠征中に、そのメンバー以外の2軍チームで夏の予選に参加し、強豪をなぎ倒して甲子園出場を勝ち取ったのです。2軍チームは夏の甲子園大会の初戦で鹿児島商業に敗れますが、当時の和歌山中が、いかに全国屈指の戦力だったかがお分かりいただけると思います。

 

 

 

憧れの地アメリカでの遠征史

 

 

米国遠征は夏休みの期間、7月上旬から9月上旬までの約2か月間行われました。当時は飛行機はないので大きな旅客船で太平洋を横断して約2週間の航海を経て西海岸の港に到着します。

 

 

この期間中、選手たちはアメリカ本土やハワイで試合を行い、現地の文化や野球スタイルに触れる貴重な経験を積みました。試合は10試合から20試合を行います。2ヵ月で10試合から20試合程度のペースですから、決して選手も負担なく試合に臨めたと思います。この遠征は、単なる試合だけでなく、国際交流の一環としても大きな意義がありました。

 

 

先程述べた遠征費用ですが、実は毎日新聞社による出資金の他、現地での試合収入もあったそうです。(アメリカ本土で約9,500円、ホノルルで4,000円、計13,500円、今の貨幣価値にして2,700万円)と非常に潤沢な資金を米国遠征で収益を上げることができました。それに加えて日本人コミュニティからの支援(宿泊や食事の提供)によって賄われたようですので資金的にはまったく問題ないどころか米国遠征で相当な収益を上げたようです。

 

スポンサーリンク

 

戦前のアメリカ遠征中、豪華な料理が振る舞われることもあったようです。特に、日系人コミュニティや現地のホストが歓迎会や食事会を開く際、特別な料理を用意しておもてなしをしたと記録にあります。寿司や天ぷらといった日本食が提供されたこともあれば、ステーキやローストチキンなどのアメリカンスタイルの豪華な料理を楽しむ機会もあったようです。また現地のイベント見学や観光地への訪問などもあり、もはや米国遠征というよりは米国旅行と言った方が良いかも知れませんね。

 

米国遠征はなぜ消滅したのか?

 

 

5年間の僅かな期間でしたが、選手・関係者に大変好評だった選抜優勝校の米国遠征でしたが、1932(昭和7)年以降は廃止となります。理由は前年に起きた満州事変にあるとされています。満州事変は国際社会から強い反発を招くこととなり、特に国際連盟は日本の行動を侵略とみなし非難します。これに反発した日本政府は海外との交流を著しく制限する措置を取り、外国チームとの試合を禁止する野球統制令が出され優勝校のアメリカ遠征制度は廃止されることとなりました。

 

 

これ以降、戦時色が高まることとなり日本は戦争に突入して敗戦を迎えることとなります。戦後、中等野球が復活し、学制改革により高校野球となります。しかしそれ以降戦前の米国遠征は行われていません。

 

 

理由は米国遠征のスポンサーであった毎日新聞社が、米国遠征を復活させるという意欲がなくなったことが挙げられます。戦前の新聞社は唯一と言っても良いメディアでしたから資金力は豊富でした。戦後になるとラジオ・テレビとメディアの多様化が進み、新聞業界全体の収益も減少していきます。選抜大会を主催していた毎日新聞も例に漏れず米国遠征のような大規模なスポンサー活動が難しくなったことも一因として挙げられます。

 

 

そして、価値観の変化も、米国遠征も大変魅力的なイベントでしたが、夏の大会も高校球児にとって大切な目標ですからその期間を割いてやる必要性も感じることもなくなり結果、復活の声は必然的に搔き消されることになります。その代わり、夏の大会終了後に全国大会出場校の選抜メンバーが米国問わず色んな国に遠征して世界各国の代表チームと親善試合をするようになりました。

 

 

ということで、100年近く前に行われた選抜優勝校の米国遠征について書き綴ってきましたが、2ヵ月間もの遠征費を一新聞社が工面してくれるなんて今では考えられないことです。大昔の話ですから今とではまったく違う価値観ですし、よく実現したものですね。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。よろしければ↓クリックお願いしますm(_ _)m

ブログランキング・にほんブログ村へ

投稿者

yuuponshow

こんにちは、このサイト編集者のyuuponshowと申します。私たちが生まれてから死ぬまで決して欠かすことのできない「お金」。人間が生きる上でとても大切なものですからお金に執着する人って凄く多いと思います。このブログはお金を稼がせるといった怪しい情報商材などの勧誘ではなく、あらゆる角度からお金について探求するものです。難しい話でならないよう分かりやすく、たまにマニアックな話題も混ぜながらみんなの大好きなお金を語っていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です